
普段、私たちが「化粧をする」という意味で使っている"メークアップ"という言葉。
化粧品ブランド、マックスファクターが産みだしたということ、ご存じでしょうか?
マックスファクターの歴史は、まさに現代メークアップの歴史そのものです。

■マックスファクターとは人名
1877年に帝政ロシア支配下に生まれたマクシミリアン・ファクトロヴィッチこと、後のマックスファクターは、自由を求めてアメリカに移住。1909年、黎明期のハリウッド・ロサンゼルスにてウイッグなどを中心とした、演劇用品専門店を創業しました。
映画産業初期、ハリウッドの化粧技術は低く、スクリーンに映し出された演者たちの表情は、生気がなく、真っ白。厚化粧で、ひび割れまで見えてしまっている有り様でした。
帝政ロシアの宮廷美容師や、ロイヤルバレエのビューティーアドバイザーとして、すでに実績のあったマックスは、「映画には、映画専用の化粧品が必要。MAKE UP!もっと良い表情を!」と強く思います。
こうして、誕生したのが1914年の「フレキシブルグリースペイント」です。
クローズアップにも耐えることができ、自然な表情を可能にしたこのドーランは、チャップリンをはじめとする、多くのスターたちに愛され、広まっていきました。
そんなマックスファクターが撮影現場にスタッフとして関わるようになったのは、自然の流れでした。
撮影技術の進化に合わせて最適なファンデーションや新しい化粧品、さらに今日のカラーコーディネートの先駆け、1918年カラーハーモニー理論を発表します。
■イエベ・ブルべの元祖?カラーハーモニー理論
人にはそれぞれ、似合う色と似合わない色があります。今では、当たり前の考えですが、当時はやみくもにカラーメイクをしていた時代。
一人ひとりに合わせた美しさを創るためには、それぞれの肌色や髪、瞳の色と調和させる、個々にベストなカラーを提案する大切さに気付くのです。
現在、私たちが自分に似合う色を探すのに利用するブルーベース、イエローベースなどの概念を一番最初に発見したのがマックスファクターであった、と言っても過言ではありません。
また、 1929年にはパンクロマティックフィルムのためのメークアップ製品開発の功績により、化粧品会社としては異例のアカデミー賞を受賞しています。
■息子フランシスとパンケーキを開発
現在、パンケーキと聞くと、お菓子を連想しがちですが、数十年前まで、パンケーキと言えば、マックスファクターの崩れにくいファンデーションを連想する方が多数派だった時代があります。
マックスと共に働き始めていた息子たちの一人、フランシス(後のマックスファクター2世)と共同で1937年に完成させたのが、当時最先端だったテクニカラー映画のために開発されたパンケーキ(固形のファンデーション)です。
これはコンパクトに入ったケーキ状のファンデーションで、水で濡らしたスポンジにとると、クリーミーな感触で肌にぴたっと密着。
カラー映画でも映える、美しい肌色を演出するのはもちろん、強いライトや高温などの激しいシーンでも崩れにくい画期的なファンデーションでした。
映画『風と共に去りぬ』でも使用され、激しい炎上シーンでも見事なほど美しい肌をキープ。さらにマックスファクターの名を不動のものとしました。
■パンケーキ大ヒット そしてマックスの旅立ち
"どんなときでも美肌を演出できる女優のファンデーション"
「パンケーキ」は評判を呼び、日常生活でも使いたいと思った女優達は、撮影現場からこっそり持ち帰るという珍事が多発します。
そして、それまでメークアップは、演劇関係者やいわゆる"夜のお仕事"の人たちがするもの。と、あまり好ましく思われていなかった一般人の意識をも変え始めます。
「映画女優のように美しく装いたい」
そう思い始めた一般の女性たちの間で、「パンケーキ」を中心としたマックスファクターの化粧品が大ヒットします。
しかしながら、マックスファクターは、1938年「パンケーキ」発表の翌年、『風と共に去りぬ』の公開前に他界。
世の中へ大きなインパクトをあたえた「パンケーキ」の大成功を見届けずに、旅立ったことになりますので、とても残念なことだったと思います。
そして、マックスファクターの情熱は、息子(フランシス)に引き継がれ、フランシスは公式に自身の名前をマックスファクター2世(ジュニア)へと改名。
1940年代、マックスの子供たちを中心に更なる飛躍を遂げていきます。
■マックスファクター2世も偉大
父の意思を受け継いだ、マックスファクター2世も多くのアナザーファースト(まだ市場に存在していない画期的なもの)を開発していきます。
例えば、落ちにくい口紅や発展し始めたテレビ用のメークアップ。パンスティック(スティックファンデ)にコンシーラー、マスカラやクリームパフ(パウダーファンデ)など、現在私たちが使っている化粧品の元祖とも言える商品を次々と開発していきます。
さらに商品の魅力を日本も含めた、世界中へと拡大、国際化にも力を入れていきます。
■マックスファクター 日本でのあゆみ
1953年、その製品力と映画産業への影響力からすでに噂になっていたマックスファクターがついに上陸。日本支社が正式に発足します。
日本市場を攻略するのに当たって重視されたのは、"郷に入っては郷に従え"。
販売会社を通じて、契約したお店に商品をおろし、カウンセリング販売をする、いわゆる「制度品」(資生堂、カネボウ、コーセーなど)として展開されました。
また、外資系企業にも関わらず、日本での国内生産をスタートします。
アメリカ発の最先端ビューティーを届けながら、日本社会に合わせて、終身雇用制度や退職金制度などを導入。非常に日本的な会社として発展していきます。
そして1959年、日本のマーケティング史上に名を残す「ローマンピンク」キャンペーンを実施。
「ローマンピンク」は、シーズンごとに新しいカラーを提案する化粧品プロモーションの第1弾で、それまで口紅といえば、赤と決まっていた女性達の常識に、初めてトレンドカラー(ピンク)の提案をしました。
また、異業種コラボレーションの元祖とも言われており、高島屋、旭化成、現東レなどと共同で、「ローマンピンク」カラーをプロモーション。
日本における初めての大規模な化粧品キャンペーンで、日本人に新しい化粧意識を目覚めさせました。
続いて、1965年。日本初のアイメークアッププロモーション「ファッシネイティングアイズ」を展開。それまでタブー視されていたアイメークの楽しさを広げ、ファッションリーダーとしての地位を確立します。
そして、1930年代後半に開発された「パンケーキ」が約30年の時を経て、60年代後半に日本で大ヒット!
強いライトなど過酷な映画の撮影現場と同じくらい過酷な高温多湿の日本の夏。水使用でひんやりさわやか、汗、水に強い「パンケーキ」こそぴったりだ!と、日本支社のアイデアからプロモーションがスタートしました。
それまでなかったサマーファンデーションというジャンルを生み、他社も類似商品を投入、夏の化粧品商戦の火付け役となりました。
■現在(2024年)のマックスファクター
残念ながら現在マックスファクターは、アメリカ市場と日本市場では販売されていません。(アメリカ市場からは2010年、日本市場からは2017年にコティへ事業売却したタイミングで販売終了)
かつての主戦場だった、日本とアメリカでは販売終了となりましたが、マックスファクターブランドはもちろん現役です!
主にヨーロッパとアジアで販売されており、新商品も続々と登場しています。
現在のイメージモデルは、ハリウッドで活躍中のインド系俳優、プリヤンカー・チョープラー。
多様性のある、現代ならではの美しさを主張しながら、マックスファクター伝統のグラマラスな世界観は健在です。
90年代、2000年代に日本で大ヒットした、「2000カロリーマスカラ」、「リップフィニティ」なども、現在進行形でロングセラーの人気製品です。
1つのマスカラで、ロングとボリューム、2つの仕上がりがコントロールできる「2in1 ラッシュ WOW」。
■"メークユーアップ"精神は不滅
親会社や販売チャネル、そして時代が変わってもマックスファクターの哲学"MAKE YOU UP"は、永遠に不滅です。
それは、"その人の長所を生かし、欠点をカバーすることで、その人本来の美しさをさらに引き上げること"。メークはもちろん、前向きに人生を歩むうえでも勇気付けられる考え方です。
そして、私たちが「メークアップ」という言葉を使い続けるかぎり、マックスファクター1世の精神と影響力は生き続けます。